2006年12月23日

武士の一分

遅くなりましたが、昨日「武士の一分」を観てきました。

感想はちょっと難しいです・・・。
観る前から、『「たそがれ清兵衛」には及ばないだろうな』と思っていたので、
そういう意味では「予想通り」でした。
率直に云えば、起伏がなく、奥行きがないという印象。気がついたら終わって
いたという感じでした。希望を云えば、「ひとつ大きな山場」が欲しかった。
ただその「変化が少ない」というところに、当時の時代背景をだぶらせて
あえてこだわったのでしょうか。

日本の伝統・文化、日本人の精神性、武士という存在を「ハラキリ」位しか
知らない外国人には理解し易い、シンプルなラブストーリーでしょう。

中間・徳平役の笹野さんの存在感が光っていました。妻役の壇れいさんの
正しい美しさ、主役の木村君の光を失ってからの芝居も良かったです。
ああ、それから桃井かおりさんの独特な色あいも映像の幅を拡げました。
ただ惜しむらくは、国民的スターの木村君を”汚す”ことが憚られたことが
時代劇らしい良い意味での「暗さ」が感じられない結果になったように感じ
てなりません。

瞠目したところがひとつありました。
クライマックスの新之丞と、妻を弄んだ憎き相手・島田との決闘場面。
新之丞は島田に止めを刺さずに立ち去ります。
ここに山田監督の深謀遠慮が伺えます。
原作では殺しているにも関わらず、映画ではあえて殺さなかった。
実際、山田監督がどういう意図でこういう演出にしたのか、私は寡聞にして知らない。

何故止めを刺さなかったのでしょうか?
単なるヒューマニズムなのか?それとも・・・。
島田に僅かでも罪の意識や恥の感覚があり、そのことを新之丞が感じていれば、
止めを刺してあげることが「武士の情け」です。
でもその「負の意識」がないことを知ったがため、止めを刺さなかったのでしょう。
「殺す価値すらない」として。そして己の始末は己でつけろと突き放した。
私はそう思いたい。
さらに云えば、すでに島田への恩讐を超え、憐れさすら感じ、切腹させてあげよう
とする達観した姿とも解釈できるでしょう。

結果的に島田は切腹します。
何故切腹したのでしょうか?
島田が島田なりの「一分」として自らの所業にけじめをつけた。前向きの切腹。
そうとも考えられます。
このままでは己の悪行が周知となり、重い処分を下される。その屈辱には耐えられ
ない。だから仕方なく切腹した。後ろ向きの切腹。私はそう思いたい。
死の覚悟がある者にとっての切腹と、生への執着に練々とする者の切腹では
大きく意味が違ってきます。
この「止めを刺さなかった」という一点の解釈で、この映画の意味が変わります。
ヒューマニズムという視点からなのであれば、この映画は時代劇ではなくなります。
そういう意味でも興味深い描写でした。

今回友人と二人で観に行ったのですが、友人は「硫黄島からの手紙」を観たいと
云っていました、ですが私が「武士の一分」を観たいと云って押し切って観ました。
近いうちに「硫黄島からの手紙」を観に行こうと約束して帰路についたことは
云うまでもありません。

「武士の一分」を観ることで、前々作の「たそがれ清兵衛」が、陰影がくっきりと
して鮮やかな、やはり秀逸な作品だったことを再認識することになりました。
私は山田洋次ファンですから、次回作にまた期待したいと思います。  
Posted by ikusanin at 16:00